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マインドコントロール親鸞会の真実

マインドコントロールと親鸞会の真実

宗教は物語?


宗教は物語だ、と言う人もいます。

作家の五木寛之氏は、「人生の目的」という本の「あとがきにかえて」
の中で、こう書いています。

「人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。それがいやだと思うなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
 しかし、これはなかなか難しいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人びとがつくった物語を「信じる」という道もある。

<悟り>という物語。<来世>という物語。<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる。その人がつかんだ真実は、誰も動かすことはできない。うばうこともできない。うしなわれることもない。

 しかし、自分以外の人がつくった物語を本当に信じられるためには、そのつくった人を尊敬できなければならない。共感し、愛さなくては、信じられない。だから信仰や宗教は、教義からはじまるのではなく、その偉大な物語をつくり、それを信じて生きた人への共感と尊敬と愛からはじまる。」


この五木氏を、何と本願寺は賞讃しています。淨土を物語として「死んだらお助け」と説いているという点で、同じ程度と言うことでしょう。
しかし、いかに共感して信じようとも、それが単なる物語であれば、
やはりそれは、現実の苦しみから逃避するごまかしにすぎません。

いかに、死後の華降るお浄土を夢見ていようと、神の国を思い描いていようと、死ぬときには、「しまった。浄土も天国も御伽噺だった。神も仏も存在しなかった。思い込んでいただけだった」と言うことになるでしょう。

マルクスは、こんな宗教を「大衆の阿片である」といい、レーニンは、「毒酒」と言ったのです。この世の救いを説かぬ本願寺の教えは、まさに、阿片であり、毒酒といわれてもしかたありません。
親鸞聖人の教えと偽って、「死んだら極楽」「死んだら仏」と似ても似つかぬでたらめを教え、「それなら死んだ方が楽になれる」という誤った死生観で自殺を助長し、大衆を騙している本願寺こそ、マインドコントロールの親玉ではありませんか。

では、本物の宗教とは、どんなものなのでしょうか。
これこそが、この問題の核心です。

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マインドコントロールとは何か?「親鸞会で教えるマインドコントロールとは無関係な真実」について